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ADHDの私が二次障害から脱するまで(2)

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こんにちは。よもぎです。
前回の続きで、私の二次障害の症状とついてお話したいと思います。
前回:二次障害から脱するまで(1)

今回はいろんな意味で更に地獄です。*1私が実際に考えていたことを包み隠さず、当時の『主観的視点』でお送りします。

二次障害の種類

より具体的に、どんな二次障害があったのか、どんな気持ちでいたのか、主だったところをかいつまんで紹介します。

解離性同一性障害

家族も、友達も、信じられる人が誰もいなくなった14歳の私は徐々におかしくなっていきます。幽体離脱したように自分を第三者の視点で見ている自分がいたり、記憶のない空白の時間が出来たり、自分の意思に反した言動が目立つようになったのです。

わかりやすくいえば「多重人格」というものだったと思われます。「思われます」というのは、親の目があって病院には行けなかったため、確定診断が下りていないからです。15歳から保健室で勧められて通うようになったスクールカウンセリングで、臨床心理士の先生から「多重人格障害*2の可能性が高いね」と言われて気付きました。

主人格(基本人格)である今の私の他に、交代人格は3人。主に学校生活を担ってくれる同い年で明るい性格のA。包容力のある年上の男性で感情の受け皿・恋人役だったB。そして人を嫌い妬み攻撃的な少女のC。

学校や人前では人当たりの良いAが『私』として活動します。何か嫌なことがあるとCがわめき、怒り、泣き。Cが出ている時は記憶のないことが多かったです。
私の日々の些細な楽しみはBとの会話で、彼は私を守らなくてはいけないときだけ表人格として出てきます。*3

常にフワフワ乖離しながらTPOに合わせて人格交代する不思議な生活がその後10年続きます。

希死念慮と自傷行為

私がはじめて「死にたい」と思ったのは小学生の頃でした。自分で感じていた「思うようにいかない」もどかしさを表現するために「死にたい」という言葉がしっくり来ただけで、当時はまだその言葉に深い意味はなかったと思います。

13歳頃には「何故私だけが変なのか?なぜこのように生まれてきたのか?」と考えるようになりました。その結果「周りと違うせいで、私だけがいつも損をしている」「生きてると損しかしない」という思考に至り常に希死念慮がつきまとうようになったのです。起きている間は殆どの時間、365日、死にたくて(理由は後述)25歳頃までざっと12年間、4,380日以上継続して死ぬことを考えていたことになります。

更に15~17歳頃には、解離性同一性障害の副産物としてリストカットをするようになりました。常にフワフワ乖離していたので、生きている実感が欲しかった。そしてやり場のない感情をどこかにぶつけたかったからです。本当に、生きるために切っていました。*4

二次障害の症状の原因は、慢性的ストレス体質

うつ病、自律神経失調症、適応障害、睡眠障害、過食症...

成人してからは自分で病院に行くようになり、その度色んな病名を挙げられてきましたが、私が真剣に治療に向き合うことはありませんでした。

どれも「問題の根本」ではないように感じていたからです。本来なら、何かが原因で病気になるはずです。でも私の場合は物心ついた時からの慢性的なストレス体質が問題だった。これが治らない限り、私が解放されることはないと気付いていました。

友達が悩みを打ち明けて皆に励まされているのを見たら
「本当の私には誰も見向きもしないのにね」

男の人に告白されたら
「好きなのは本当の私じゃなくて、嘘の私のくせに」

お笑い番組を見て笑ったら
「全部作り物での笑いで、心から楽しいことなんてどうせない」

信号に引っかかって乗りたい電車に乗れなかったら
「何一つ自分の思う通りに行くことなんてない」

どんな些細なことでも、こうやって「だから早く死にたい」につなげてしまう、慢性的なストレス体質。自尊心のなさ。ネガティブ思考。

カウンセリングを受けても、薬を飲んでも、やはり何も変わることはありませんでした。

自尊心の低下で変わる人格と、破綻

上記のような症状が積み重なることで、同時に言動にも影響が出てくるようになりました。私はこれをあえて、二次障害症状ではなく「自尊心の低下による人格の変化」として紹介したいと思います。

自分を保つために人を攻撃するようになる

些細なことで感じるストレスや絶望をすべて自分にため込み、交代人格Aに『普通の家庭で愛されて育ち、何の不自由もせず、苦労知らずの恵まれた人間よもぎ』として、毎日楽しそうに暮らしてもらうことのむなしさは、筆舌に尽くしがたいものがありました。*5

そのむなしさから、他の上手く行っている人を見ては、粗を探して攻撃することで自分の心を保つようになります。20歳くらいからこの傾向が強くなった気がします。

女子会や合コンにはしゃぐ友達を見て
「そんなに楽しいんだ~、理解できないなー。私はキャピキャピできるタイプじゃないというか、冷めてるというか、男っぽいし」

上手いこと口八丁で就職成功した成績の悪い友達を見て
「嘘ついてまで入社した会社で思い通りに仕事なんてできるのかな?」

愚痴を言わない人を見ると
「どうせ裏ではすっごい文句言うんだよああいうタイプの人って」

こんなことを平気で思って、軽蔑した目で見ていました。そしてそれを本心だとも思っていたんです。本当は、彼らと今の自分を比べてしまって、羨ましかった、妬ましかったんだと思います。*6

人を羨み妬み、比較しては落ち込む。そしてそんな自分が異常だという自覚があるにもかかわらず、何をどうやっても自分を変えられないことへの絶望の悪循環に陥って、もがいてももがいても、出口が見える気配はありませんでした。

私って何なんだろう?誰かに本当の私を知ってほしい。受け入れてほしい。私の話を聞いて、黙って笑って抱きしめてほしい。好きになってほしい。愛してほしい。実在する誰かに助けてほしい。幸せな人生が欲しい。

本気で全てを投げ出して、死ぬこと

※ここからは、自死についての体験を少し書きます。自死について、強いトラウマがある方や、影響を受けそうという方は閲覧をお控えください。決して自死を肯定する意図はありません。


死を考え続けた4,380日の中で、本当にすべてが嫌になって、実際に自殺未遂を起こしたのは2回です。一言で言うと、死ぬのにはとんでもない覚悟と労力が必要です。一度でも実行に移そうとした人にはわかると思いますが、死を目の前にして足がすくむのです。

こわい。あれだけ死にたいのに、死ぬのは怖いんです。
それでも私はその一歩を踏み出してしまいました。

19歳の時のポエム。ポエムだけど、私が辛かった証でもあります。1回目は大学生の時、19歳でした。大学に行けなくなって引きこもりになっていて、すっかり底なし愛情バケツモンスターが完成していました。これ以上人生が良くなる気が全くしなかったので、「今が楽しいと思える感情があるうちに死のう」と思ったんですね。

当時のmixiの日記(ポエム)があったので公開します。その時の気持ちが書かれてます。

この時は外で自死を試みましたが通りがかりの人に発見され、生還しました。

f:id:yomocracy:20171018183949p:plainありがたくも生還して一度は前向きになりはしたものの、何かが好転することはなく、悪化の一途をたどります。それがよくわかる日記を見つけたのでこれも公開します。1度目の失敗から、たった2年後の日記です。*7

とにかく「困難さ」を強く感じていたことがわかります。「他人のことなんていいんですよ」と書かれているところから、自死にあたって恐らく家族のことや体裁を考えていたのだと思います。*8

実際に2回目に行動を移したのは、25歳の時でした。
やはり首を吊ったのです。大学をなんとか卒業した後、就職したことで発達障害由来の困り感がどっと押し寄せてきたこと、社会人として意識を変えていかなくてはいけないことに耐えられなくなっていました。
「変わりたい、変わりたいと思ったって、結局何も変わらない、私はどんどん落ちてくだけなんだ」切実でした。

前回の失敗を元に場所は人のいない屋内を選びました、が。
なんと縄をくくりつけていた所が壊れて生還!...私の体重に耐えられなくて、ですよ!!!笑

あんまり深刻そうに書くと悲しくなるので茶化して書いていますが、当時は悲しくて悲しくて一晩中泣いたことを覚えています。

「また死ねなかったんだ、死ぬことも許されない、助けてくれる人もいない、辛いことはこれからも続く。私は頑張っても頑張っても変われない。一体どうしたらいいんだろう」

母子関係も改善せず、就職後も上手く行かず、友達はどんどん成功して遠くなっていく。気がつけば絶望の淵に立っていました。
これが私の死にたかった4,380日のすべてです。『私』の嘘偽りない姿です。

開かれし黒歴史の扉...✝︎(まとめ)

私の半生、いかがでしたか。どこに出しても恥ずかしい、厨二病メンヘラブログの様相を極め、私はとてつもなく恥ずかしいです。
でもそれは、私が一山超えたからこそ若い自分を恥ずかしく思うだけで、メンタルヘルスの問題を抱えた人を恥ずかしいと言っているのではないです。

はじめに私は、当時の私になりきって『主観的に見た状況』を書くと言いました。メンタルヘルスの問題は当事者が一番つらいのです。苦しいのです。今は真実を知って、どれも取るに足らないことと思えるからこそ、茶化しながらブログを書いていますが、あの時の幼い私が感じた一瞬一瞬のストレスは間違いなく巨大だったんですね。

次回はいよいよ、二次障害のスパイラルから抜け出したきっかけについてのお話です。渦中の当事者の方には「そこから抜け出せる経験」を、保護者の方や支援者の方には「生の声と現実」をお伝えできればと思っています。
→NEXT:ADHDの私が二次障害から脱するまで(3)

本日も最後までお読みくださりありがとうございました😊

*1:どう見てもネタっぽくなってしまい自分が一番切ないのですがどうか笑ってやってください。前回同様、本音や補足を注釈で入れます。

*2:当時は「解離性同一性障害」ではなくまだ「多重人格障害」と呼ばれていました。私の場合は後々主人格と交代人格の間でコミュニケーションが取れるようになったので、逆に唯一本音で話せる話し相手として救われた面もありました。所詮自作自演なんだけど...

*3:創作のようにハッキリと役割が与えられた交代人格で、文字にして書くと恥ずかしくて泣けますが、それだけ防衛本能と想像力が豊かだったのでしょうね。今は完全に『私』に統合されています。

*4:メンヘラブログによくある「生きるために切る」は当事者にとっては本当だと思う。ちなみにさほど深く切るようなことはなかったため、幸いにもほとんど傷は残っていませんが、血行が良くなって皮膚が赤くなると今でも何本か傷跡が白く浮き出ます。

*5:実際には、誰しも人に言わない苦労ってたくさんある。この時は私だけだと思ってましたwwでも私がそれに気付くのは25歳くらいです。

*6:繰り返しになりますが、彼らもその笑顔の裏には当然私に見せない苦しみがあったのでしょうけどね。私には全く見えていなかった。

*7:というか、2年たたずに毎日こんな感じで「死にたい」しか書かれていないmixiは、もはや呪いの魔導書と化しています

*8:1回目は、そこまで考える余裕がなかったのか、至らない程幼かったのか、今となっては思い出せません。